
路上で【天城越え】を熱唱している少女を見かけて以来、
頭の中から天城越えのメロディーが抜けない。
メロディーどころか、油断しているとイントロが始まってしまって、
つい歌い始めてしまう。
何故か歌詞もスラスラと出てきてしまって、フルコーラス。
こんな症状が3日も続いているのだ。
いい加減にして欲しいと思うんだけど、
それをどこに言いに行けばよいのか?
困ったものだ‥。
こうなったら、カラオケで歌っておくしかないか。
だけどタツの前でこんな曲歌ったことなんか無いしなぁ‥。
昔は会社の付き合いで飲みに行くことも多かった。
接待ってのもあった。受ける側の立場が多かったけど、
あくまで上司のお供だった‥。
そんな席ではやはり演歌が似合う。
と言うかそれしか許されない世界だ。
だから、仕方なく何曲かの演歌を覚えた。
石川さゆり、前川清、石原裕次郎‥。
もうこれはPTSDじゃないかと思うのたけれど、
何かの拍子につい思い出して口ずさんだりしてしまうのだ。
そのたびに、あの上司のど下手な歌を思い出して薄ら寒くなる。
俺はただ言われるがままに歌うのは嫌だった。
だからどうせ歌うのなら、思いっきり上手く歌おうと思ったのだ。
それには、もう一つもくろみがあった。
上司よりも上手く歌うことで、
俺を連れて行くのが嫌になればこれ幸いだと思ったのだ。
最低でも、
「レン君も歌え♪」
とは言われなくなるんじゃないかと考えたのだ。
人知れず陰の努力を重ね、喉から血を吐くような日々を繰り返し(笑、
いつしか俺はとびっきり上手く演歌が歌える男となっていた。
それはまた、上司のお株を奪い、
存在意義さえも無にするような脅威の存在でもあった。
俺は、夜の街ではどこへ行っても人気者となった。
見知らぬ客からも拍手と賛辞とおごりの水割りをもらった。
お店からは、誰が払ったのかは知らないが、
ご褒美の焼きそばも頂いた。
店がはねてから、一緒に歌いに行きましょうと
誘われることも多かった。
いつしかリクエストすらも受ける事になっていた。
しかし‥。
当然の事ながらそんな事、ちっとも嬉しくなんか無かった。
俺はただ、その場に居たくなかっただけなのだ。
意に反して、上司は俺を手放さなかった。
俺を連れていくと、上司まで人気者となっていたからだ。
結局、肝臓を壊した‥
と嘘の報告をするまで、俺のお供は続いたのだった。
結果がどうであれ、上司は俺を可愛がってくれた。
その事には感謝の気持ちがあったけれど、
こうして今振り返ってみれば、
俺に残ったものは、【天城越え】だけなのだなぁ‥
と思うとちょっと切ない。
まぁでも、一度タツの前で歌ってみるか。
♪何があっても、もういいの
くらくら燃える火をくぐり
あなたと越えたい
天城越え♪
あの頃の自分は、どこへ行ったのだろう‥
と思っていたけれど、ちゃんと自分の中に存在していた。
あの頃と今では、生活の何もかもが、変わってしまったけれど。
だけど、考えてみればあの頃、
あの夜明けの薄汚い街角でも、同じ事を考えていたなぁ。
雲が行くように
水が流れるごとく
気ままに形を変えて、俺は生きている。
今の名前は、レン。


